昭和43年10月05日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人はたすからぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
確かにこのう無学でも人が助けられるということ。学問があっても難儀をしておる者があると言う事。その例えば様なことを一番感じるのは御本部参拝の時ですね。沢山な御信者を引き連れてお参りになっておられると言った様なところの先生は先ず学問がない。それが多いですね。まぁ一概には言えませんけれども、御本部の偉い先生方と言うところの教会では人が助かっていないですね。なになに大学の哲学部を出られたと言った様な、非常に学問の優れた先生の所では人が助かっていない。
さも信者が助かり、御本部参拝をさして貰うとその感をいよいよ強う致します。だから問題はあのう助かると言う事なんですね。よう立ち行くと言う事なんです。お互いが信心をしておかげを頂くと言う事は立ち行くと言う事です。立ち行くおかでを頂かにゃ。しかも自分だけが立ち行くのではなくて、自他ともに立ち行く、もちろん自他共にと言うのは、神様も立ち行かれ、自分も立ち行くと言う事。まぁ御本部参拝で申しますならですね。合楽教会も立ち行き。ご本部も立ち行かなければなりません。
御本部だけが立ち行けばいいと言う事でない。また合楽教会も立ち行きゃもう関係ないと言う事ではない。いわゆる神様も立ち行かれ、氏子も立ち行き。総おかげを頂かなきゃならん。ここで学が身を食うとこういう。学問があってと言う事は、学が身を食うとはどう言う事であろうか。学者でもあぁいうお徳を受ける、やっぱりおかげを受けておられると。いうところも無いのじゃない。ある。学が身を食う。
なせば出来る事、自分にこのう出来ると、私しは結局それは学が身を食うと言う事は、自分は何をさせても出来ると、誰よりも頭がいいと、と言うそのところが私しは身を食うのじゃなかろうかとこう。ですからそう言う何をさしても出来ると、頭がいいと切れるといわれる様な方達が、本当に信心を出来させて頂くんだと。神様のおかげでと。神様のおかげで出来ているんだと。神様のおかげでと言う事がわかれば、こりゃもうだから鬼に金棒ですね。
自分の頭じゃない、自分の腕じゃない、いわゆる自分の頭が腕がいわば身を食う場合がある。まぁ言うならこれは学問だけのことではない。いわゆるさばけとる。さばけてという人がある。さばけておる。さばけておる事は有り難い。けれども自分がさばいておると思うから、そのさばけておる事が身を食うのである。もうわたしゃ何にも出来んもうこれだけと、例えばもうほかん事は出来んこれだけはという。
そのうこれだけは出来る、出来ると思う心がもうあのうもうなんです。ですからいよいよ豊かにいよいよ大きくならして頂くためにはね。どんなに出来ても学問があっても、さばけておっても、その根本のところをよくよく分らせて頂いて。おかげで出来させてもらうと、おかげでと言うところを分らして頂かなければ、私しゃいよいよ大きなおかげになって来ない。私がしなければ。そこに神様の機感にかなわぬものが出て来るんですよね。やはりいうならば学が身を食うと言う学という我が、我が自分の身を食う。
此方は無学でも人が助けられる。助かっておる。此方無学でも皆おかげを受けておる。まぁ例えて言うなら、この切れでもそうである。何にも出来ないと言う事でなら、もうここ辺の先生方や、私しが一番だろうとこう思う。まぁ何をさしても出来ない。出来ないけれども人が助かっておる。それで私しに出来る事があるとするなら、その出来る事がね、たとえばなら私しがそれがそれ、私しゃ商売だけなら人後に落ちない。誰にでも負けん。その様に自信過剰にあった訳です。
ところがそのう様々な機会を得るたびにです、自分で出来とったちゃなかったと自分の腕じゃなかったと、神様のおかげ頂かなきゃ出来る事じゃなかったんだと分った。そこからもう出来ない、私しには何にも出来ないと言う事になったわけ。ですから学問があっても結局自分の無力さと言うものを分らして貰うところから。もう限りのないおかげに広がって行くのです。自分の力があると言うところに、結局もう範囲が決められてしまう。私に力がないそれになら無尽蔵と言うか、無限と言うかね。
限りのない力を持って御座る神様へ願うのですから、限りないおかげが頂かれる訳です。限りのないおかげを頂かして貰うと、はぁこの調子で行きゃ限りなくおかげが受けられるぞと。例えば現在の合楽がこの程度ですけど、けれども限りなくおかげが受けられるぞと、言う様なひとつ見通しと言うか、そう言うそのう信念が出来る様な私はおかげを頂きたいと思うね。それにはいよいよ自分が何にも出来ないと言うかね。吾無力であると言う事をいよいよ分からしてもろうて、神様のおかげを頂かなければ。
私が出来ると言う事が身を食うと言う。私が出来ると思う事がもうそれだけしか出来ん。だから本当に例えば沢山なですかね。例えばなら御本部参拝に1000人づつの引連れてお参りになるといった様な先生の所では、私しは思うのに、まぁ本当に無学といわゆる学問やら大してしちゃおられない先生方が、まぁ多いと思うですけどもですね。人がどんどん助かっていくのはいよいよ自分が無力であると言う事を実感しに帰っておられる。だから私は人が助かっていくとこう思うです。
ですからこれは決して先生方ばかりの事ではありません。それこそ何にも出来ないという人の所でです、神様の無限力に触れて本当に広大なおかげを受けておる。ですからそれは決して教会だけじゃない、先生方だけじゃない。お互いの場合でも、本当に自分が出来ないと言うところに立って、神様に縋らなければ願わなければ、信心しなければ、修行しなければ、立ち行かんと言うところから、私しはおかげを受けた人たちは限りなく太って行ける。と私しは思う。
ですから少しばかり、そのう才が効くとか少しばかり学問があるとか、少しばかり腕に自信を持っておると言った様なものは早くですね、それを私しは一遍神様にお返しすると言うな気持ちでです。もう何にも出来ない自分というものにひとつ気付かしてもろうて、そこからおかげを頂いて行かないとです、おかげにいわゆるいよいよ限りのないおかげになっていかない。そこに私しは先ず分らした貰わん事はです、人間を筈さねければならないと言う事。人間の考えを外さなければいけないと言う事。
ああだからこう、こうだからああと。そこのところを繰り返し繰り返し稽古さして頂いてですね。成程神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと言う事をですね。分からして頂いた人が、私しは無学でも人が助けられると言う事になる。例えば商売人であるなら商才はないけれども、やっぱりどんどん儲かっていきょんなさると言うと、あっちはなかなか商売人だとなかなか商才がある。やる事に抜け目がない。
けれども結局は残っていきょらんと言うならやっぱりかえっていうなら、片方で道を開くと言う事がどんなに有り難い大事な事か分る。私は今度の御本部参拝でいよいよ実感させて頂いた事は、御本部と言うところはね、今迄お礼参拝、お詫びのお参り又は御願いと言う様に申して参りましたです。今日はそれを今までは、嘘ではないけれど全部本当じゃない気が致します。
これはお互いが立ち行くおかげを頂くと言う事、今日はね。お互いが立ち行くおかげを頂く所は、何と言うても銘々の教会が、銘々のお広前だと言う事です。皆さんの場合は合楽教会以外はないです。皆さんが立ち行くおかげを頂くためには。御本部に参拝しておかげを頂いたって言った様なものはそれはほんなこっちゃない。御本部に参ってお願いをしておかげを頂こうなんて考え方ではおかげにゃならん。
もうおかげはです、例えばこりゃ私共自身の事ですけれども、もう私し自身の本当の信心の出るところは、ここ以外にはないですよ。もう自分でここに帰った途端に二人見るごと自分が自分に何時も気が付きます。今日ほどもそれを感じ取りきらなかった。いまの御本部参拝の時。そこでなら御本場はもうあっても無ってもいいのかというじゃなくてですね。もう御本部と言うのはもう、皆んな信心が出来とろうが出来ていまいが、おかげを受けとろうが受けまいがですね。
もう楽しゅうて堪らんと言う思いでですね。例えば里帰りをする様な思いで、もうとにかく楽しゅうお参りをするところだと。そこはもういいいよ私共の心のふる里なんです。例えば嫁さんとこの実家に帰ると言うたらもう気は浮き浮きしてくる。それこそお金がないなら、質屋においてからでも里帰りはしたい。そして喜んでもらいたい。又は願う事も、悪い事も内容としてはありましょうけれどもです。
私共が詫びやら願やら思いやらが、神様に通うたらそれが御かげなるという、おかげを受けるのはどこまでも、皆さんの場合は、合楽教会以外にゃない。皆さんが真心一杯のものをね。真心一杯のものを尽くされるのは、合楽教会以外にゃない。皆さんどうですか。御本部に真心一杯のものがお届け出来ますか。ですからお互い信心がです、本当に例えば合楽教会にあって、日々のお取次ぎのおかげを受けて、そしてお互いが立ち行くおかげを頂くと言う事。
その立ち行くおかげを日々頂いておるからお礼参拝をすると言った様なもんじゃない。勿論お礼も申しましょう。けれどもね、それはもう立ち行く立ち行かないは別として。たちゆくの、立ち行かんのといった御本部と言うところにゃお参りしたいというとこでなきゃならん。真心一杯でと言う事は先ず無理なんです。だからここに言える事はね。修行でお参りをする、これはいいんですね。けれども修行でお参りすると言うてもその内容ですね。やはり運命、楽しいと言うもののですかね。
さてあれを出してもらうと言うあんあの楽しさと言うもの。だからもう私しは思うのにですね。これはあのう同郷なら同郷でもです。もう本当に喜々として、喜々としてと言うものが内容になからんといかんと思うです。信心の喜びと言うんじゃない。里に帰らして貰っとると言う喜びなんです。だから今日なんかでも本当におお互い銘々がです、楽しいものを出しあいながらの私しゃあのお参りである。
和気あいあいと言う事を言いますが、合楽の場合なんかでももうわきあいあいであり、何時も賑やかに楽しゅうお参りが出来ます。今日はそれをもう一つすね、もう一つ私しゃそこんところを頂いていかなけりゃならん。御本部参拝をさして貰うと言う事はね。どこまでもそのう、いわゆる昔の方は、お国参りというた事を言うたそうですがね。もうとにかくお国参りである。里帰りである。心の故郷に年に何回かお参りさして貰うと言うところなんです。
御願いやお詫びやら、御本部行ってから、真からお願いしてこうお参りしてこうと言う事は、大体金光教の建前から言うても間違いです。それは直接おかげを頂いて来る様になる。それを例えば言うならやかましく言われておりますけどね。銘々のお広前にでお互いがおかげを受ける。真心一杯の信心、一生懸命の信心は銘々の教会で言われる外に打ちだしてゆく所はない。だから御本部はどうでもよいと言うのじゃない。
御本部はどこまでも、もう楽しゅう嬉しゅう里帰りの、言わば気持ちでお参りをさして頂く所だと思います。ですからそこには、もう何を置いても、お参りさして頂きたいと言う願いが持たれるような、信心にならなければいけません。御本部参拝と言うたら、もう皆んながお参りするたまらん。もう何時いつ一遍参ったけんで、良かと言った様なもんじゃない。そういう一つの憧念心とでも言うか、憧れの念というものが、御本部には掛けれるところ。
それが育って行くと言う事がですお互い信心が段々分って行かなければそういう心も湧いちゃこないだろうとこう思う。そしてお互いが本気で信心の稽古をさして頂くところ。お互いが本気で願うところ、あげるところはそしてお礼を申し上げるところは、自分たちの教会以外にはない。ではないそこでなければ一生けん命など出らない。と言う様なまぁ気が致しました。お互いの信心がですね。無学で人が助けられると言う事はないとこう仰っておられる。
お互いが先ずひとつ学があっても無学同様にならなければならない。自分に出来ても自分が吾無力であると言う事を先ず知らなきゃいけん。自分にできる、自分に学がある、自分がさばけておる、そういう考え方ではねもうその時に決まる、決められる。いわば学が身を食うと言った様な教会で人が助からないのもそれなんです。なら学問が例えばさばけちゃならん。腕を立っちゃならん。学もしちゃならんというのではない。そういう一切のものがです。
ところがその学問があると学問がやはり、鼻の先にぶら下がっておるからいけない。神様のおかげで出来たのである。神様のおかげで出来さして頂くのである。これは私しが、私し自身の事を礼を取って申しますとが一番いいと思いますね。まぁ今言う様にまぁ私しは商売が上手と言う事は、自他ともに許しておる位に自分には商売だけにゃ自信があったっです。その商売を私しでは何一つも出来ないんだと分ったんだ。そこから私しは出来て来るものでなければほんなもんじゃない。
ほんとに吾無力であると言うところから私しは、無学でもと言う事は、われ無力でと言う事だと思うんです。ですからそれこそ分ると馬鹿とあほうと言う事にもなるのです。馬鹿と阿呆で開く道こそ、始めてそれこそかげのない自由むげな神様の下さる、そのおかげは充分に頂けれる状態と言うのがそこにあるのです。枠が作った様にこれからこれまでは出来る、出来るとこだけは神様にお願いする。そういう考え方はいよいよだめ。一から十までが神様のおかげを頂かなければ出来ないと言うところ。
そうするとですね、そっから我情我欲が段々外れて来るです。私がこればせんならんと言った様なその我情ね、我欲が外れて来る。それではそれをむしる事が却って身を食う事になる。此方は無学でもみなおかげを受けておる。私は何んにもできませんけれども、おかげでどんどん繁盛しよりますということなんです。私は何んにも出来ませんけれども繁盛しよりますと。私はここでなぁにもしきらんですけども、私は言うでしょ何時も。私は何んにもできんですけれども、ただ私がここに座ってさえおりゃ。
たんと皆さんがあぁして私の手にも足にもなって、皆さんがやって下さる。だからそれこそ私共一人じゃ出来んだけの事がそこに出来ている。御本部参拝でもそうである。そのことでもこのことでもみんな実を言うたら、私しが一人でしなければならないことをね。皆さんがちゃんとやって下さる。ですから私が何も知らんなりに出来ておる事が多いのである。それも自分がやらんならん。これも自分がやらなければやり損うと言った様な事がない。そういう一つ限りのないおかげを頂かして頂くためにもです。
無学にならなければならない無学と言う様な事は、われ無力と言う無力と言う事。と言う事を悟らして貰わなければならないと言う事である。そこから私はおかげが頂ける。例えばいつもこの御理解を、学問があって本当に只学問のある為に学が身を食うと、それでおかげが受けられんと。と言う風に頂いとりますが。それをそう頂きますとね。学問をしちゃならんごとある。( ? )が却ってよかていと言う事になってくる。
けれども学問をさして頂いてもです。例えばそのう学問が身を食うのではなくてですね。神様からいわばさして頂くと言う気持ち。結局は私しは一切は無力だと言う事。分からして頂いてその御用が出来る。これは自分の我情我欲と言うものがですね、出来る事によって却ってその我情我欲がそのつのる。自分が出来ると言う事を思うと、ですからもう自分は出来ない。神様のおかげを頂かにゃ出来る事じゃないというところから、我情我欲からはなたれる。
だからいよいよ我が身は神徳の中に生かされてあると言う限りのないおかげの中に住まわせて頂く事が出来る。と言う様な事を申しますと同時に、今度の御本部参拝、なら私しが感じました事、私しの本命と言うか、私しは何と言っても私しが一番光るところはここ以外じゃはない。だから本当は信心を御本部じゃ出来ん、ここでなら出来る。と私しは思います様に皆さんだっておなし言がいえるのじゃないだろうか。
御本部と言うところはそうした( ? )は信心の稽古するところでもなければおかげをもらいに行く所ではない。ただ私し共の信心の大元、その大元にとにかくやはり行かなきゃおられないというのである。しかもそれはもう楽しゅう堪らん。それは里帰りをする嫁さんの様な気持ちでお参りしなければおられないと言うそう言う気持ちで、やっぱりいかにゃおられん。あれの都合もこれの都合もあるけれども。
行かれると思いよったばってんさぁ皆さんが御本部参拝の用意をし出しなさると、とてもやっぱりそれでも置いて参らにゃおられないと言う様にですね。そう言う様なものが私しゃ高められ、そう言う様なものが爆発的に御本部では、有り難いものになって来ると言う様なものでなからなければならない。ですからそれは、お参り、大広間御本部だけではない。お参りの行掛けから道中から、とにかく楽しゅうて堪らんという思いがなからなければならない。
御本部に行くまでは充分慎んでおかにゃいけませんけれどね。まぁ慎むだけと言った様な事だけじゃない。御本部にお参りするまでは、お酒なんか飲めないです。好きな人でもですね。と言う様なわたしもそげん考えてるけれども。こりゃそげんどんちゃん騒ぎしていくと言うならですけども。家でゆっくり頂きよる人ならば、御本部参拝の時にゃ却って普通二合なら二合飲ましていい位の事は、却って有り難い事だなと私は思うです。御本部参拝するとよけいお酒飲む。
お酒飲むとこだけが楽しいと言う事ではいけないけれども。なんとそのお話と言うものが、極端に言わんと分かり難いからですね、とにかく私しの今度の御本部参拝の、参拝の在り方と言うものはね。今までとは少しこう考え方が変わって来た。そしてしら真剣な信心を出せるところはここ以外にゃない。みなさんもそれを体験されておるけれども。気付いておられないのじゃないかとこう思うです。こんど私しそれをいよいよ実感してまいりました。
どうぞ。